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2009年10月 2日 (金)

鞆の浦 埋め立て工事停止判決

生活の豊かさとは何かを考えさせられる話題だ。

工事停止の判決を聞いた工事推進派の住民が記者団に対して述べた「住民の生活を全く考慮していない。」というのが、図らずも問題のポイントを象徴している。

先日NHKで観た、‘世界ふれあい街歩き' を思い出した。
イタリア アマルフィの狭くて急な階段を何十キロもの重いテーブルをかかえて登る、決して若くない家具職人の姿があった。弱音を吐かず、その仕事に対する誇りを語っていた。
老婦人が買い物袋をかかえ、途中、何度か休憩しながらやはり急斜面の上にある自宅を目指していた。車なんて行けない場所に住んでいる。しかし、登りきった山肌にある住居から海と街を眺めている様子は、その生活をいとおしんでいることは明らかだった。

程度を越えた不便さは改善していくべきだが、埋め立てという手法でしか実現できないのだろうか? 他に方法がありそうな気がする。コミュニティの力が必要だろう。

今、有害なくらいに便利さを求める傾向、都会的生活環境を求める均一的志向がはびこり過ぎているように思えてしかたない。

実際に鞆の浦に行ったことがある訳ではないから、どの程度の文化的価値があるのか分からないが、不便さを埋め合わせる以上の価値を住民が見いだすことはできないのだろうか?

今回の判決がテレビで報道されている様子を見てそんな風に思った。

今日、朝日新聞で、この話題に関連する記事を読むと、おっ、アマルフィを引用していた。そうだろ、そうだろ。

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